2017年10月18日 (水)

皇室問題と総選挙

 毎日新聞は、衆議院選挙立候補者に、25の項目についてのアンケートを実施、10月14日の朝刊に発表した。その第25番目に、「皇族の数が減らないようにするため、皇族の女性が結婚後も皇室に残る『女性宮家』を認めることに賛成ですか、反対ですか。」の質問を発表した。

 その結果は、「全候補者の5割強が認めることに賛成した。」
 

 賛成の党派別内訳は次の通り。
     立憲民主党 84%
     社民党    76%
     共産党    71%
     希望の党   69%
     公明党    59%

 これに対し、「自由民主党は主要政党で唯一、反対(39%)が賛成(33%)を上回った。日本維新の会は賛成35%・反対33%と拮抗。」
 「将来の女系天皇誕生につながりかねないという保守層の警戒感が反映された形だ。」と分析している。

 ちなみに、三重地方区立候補者の回答は次の通り。
      賛成   松田直久(無所属)
            中川正春(無所属)
            川崎二郎(自民)
            岡田克也(無所属)
            野村真弘(共産)
      反対   田村憲久(自民)
            坂本麻貴(諸派) 
            島田佳和(自民)
            藤田大助(希望)
      無回答  三ツ矢憲生(自民)
            谷中三好(共産)
 

 女性宮家については、野田内閣のもとで、実現に向けて準備が進められたが、安倍政権はこれを白紙に戻すとして、最大・最重であるこの課題をブロックして今に至っている。

 御代の替わりが迫り、女性皇族の多くが、ご結婚にふさわしいご年齢を迎えられている現下、『皇室典範』と名付けられた「法律」の改正は、何よりも急がれる焦眉の課題であり、それは当然ながら立法府・国会の任務である。また、議院内閣制においては、行政府も国会が作り出すのであるから、この面からも国会議員の責任は重い。

 現在、国民の大多数は、皇室に大きな敬愛と親しみを抱き、皇室のない日本などを考えたこともないであろう。これは紛れもない事実である。

 今回の選挙で選ばれた選良に、この喫緊の課題の解決が委ねられる。このアンケートが注目される所以である。

 選挙後の重大な局面を考え、備忘のため記録しておくこととする。 

 


2017年5月 6日 (土)

山本直人著『敗戦復興千年史―天智天皇と昭和天皇』を読む

偶 目 書 感 

 

山 本 直 人 著

『敗戦復興の千年史――天智天皇と昭和天皇』

(平成29223日、展転社刊)

一見、奇抜で人を驚かせる書名ではあるが、副題によつて著述の意図は大方推察できると思ふ。

 わが国は、歴史上、二度、対外戦争で深刻な敗戦を経験した。一度は、昭和の大戦。もう一度は、663年、唐・新羅連合軍との白村江海戦での大敗。わが国は、半島より撤退、さらに本土防衛体制の構築といふ高度な緊張状態におかれることとなる。

このとき、斉明女帝は、661年、本営がおかれた筑紫・朝倉の行宮で崩御。これ以後、皇太子中大兄皇子が、称制のお立場で政・軍を総攬され、667年近江の大津宮に遷都、翌668年即位される。天智天皇である。

天智天皇は、大陸・半島情勢に気を配りながら、「百済の役」以前に開始された、いはゆる「大化改新」一連の改革を果敢に推し進め、国内体制の整備・強化に取り組まれる。「近江令」といふ体系的な法典の存在には疑問があるとしても、なんらか律令法典の先蹤をなすものが編纂されたことは否定できないであらう。670年作成を命じられた「庚午年籍」は、全国的に行はれたと考へられ、氏姓の根本台帳として永久保存が命ぜられ、奈良時代以降も、氏姓に関する訴訟の判断にはこの年籍が利用されてゐる。

天智天皇崩御の後、壬申の悲劇を経て、天武天皇の御代となり、基本的には天智天皇の政治目標を引き継ぎ、聖徳太子が示された国家の在るべき姿を、法制・制度の上に実現された。この天智・天武天皇二代の御政は、「国家の根本構造 Constitution」を制度・法制の上に確定した意味に於いて画期的な意味を持つ。後の武家政権の時代を含めて、なほ「律令」は国家の基本法であり、形式的ではあるが、その太政官制は王政復古・明治維新に蘇る。

 本書は、このやうな、外には、大陸・半島との緊張を背景にし、一方内には、急激な改革に対して当然生じる広範な不安や猜疑のなかで、わが国の骨格が形作られるその時代を、「大化の改新から百済の役へ」、「運命の白村江」、「幻の湖都・大津宮」、「国土防衛の礎」、「近江荒都と壬申争乱」の各章において、豊富な文芸の知識を駆使し、読者をして、その時代の悲喜を、その時代の人々の息づかいにまで近づけて感じさせてくれる史論である。

 特に、筆者は、美濃の西のはづれ、山を越へれば近江といふ「関ヶ原」に生まれ育つた。ここは「天武天皇紀」に「和蹔(わざみ)」と書かれ、いちはやく高市皇子がここを押さへられた。この、吉野方の不破道制圧は勝敗に大きな意味をもつたこといふまでもない。

 小さな盆地の関ヶ原には大きな川もない。わたくしどもにとつて、大きな「うみ」といへば琵琶湖。彦根まで国鉄(JR)に乗つてよく泳ぎに行つた。学生時代「琵琶湖周航の歌」はみんなでよく歌つた。今でもカラオケで歌へる数少ない持ち歌のひとつ。この時代は、日本の揺籃期から青年期に至る時期とも考へられるが、わたくし自身の幼い記憶、若き日の想ひ出と重ねて、なつかしく楽しい章立である。

 しかし、これ以後の各章が著者独特の史観の表現であり、また本書の本領であらう。それはまさに「書名」の内実に迫るところである。「天智天皇鑽仰の歩み」、「近江神宮創建までの道のり」、「昭和動乱と皇室の危機」、「新日本建設と昭和の中興」と続く。

 平城京遷都は、元明天皇の御代のこと。天皇は天智天皇の皇女。この元明天皇の即位の宣命に、初めて、天智天皇が定められたといふ「不改常典(かわるまじきつねののり)」が現れる。そして以後の天皇即位に際してしばしば使はれる。この「不改常典」についてここで深入りすることはできないが、このやうに天智天皇の御政治が国家の規準として仰がれた歴史的事実は重要である。

さらに重い意味をもつのは明治維新である。明治維新は、復古と革新の二面性を蔵する壮大なる日本再興の政治運動であり、まさに「中興」そのものである。さうであれば、当然、近代は、天智天皇鑽仰の精神の昂揚をみるに違ひない。それは、昭和15年の「近江神宮」創建へと進んだ。昭和20年1月25日、その近江神宮において、大化改新千三百年祭が斎行された。そして、その8月、未曾有の国難に遭遇する。

 この国難を、御身、御一身にお受け止めになり、天智天皇のあの御苦労を偲ばれ、国家再建に臨まれたのが昭和天皇。天皇は、昭和218月、首相、閣僚を召されたお茶会で、「当時の天智天皇がおとりになった国内整備の経綸を、文化国家建設の方策として偲びたい。」と仰せになつた(本書10頁)。副題が「天智天皇と昭和天皇」とある所以である。

  さて、本書の最終章は、「むすび~国家千年の大計~」である。この章中の「国家千年の大計」に、緒方竹虎が米内光政から聞いたといふ、「五十年で日本再建ということは私は困難であると思う。恐らく三百年ほどはかかるであろう」との昭和天皇のご述懐が紹介されてゐる。

 この、「日本再建」には「三百年」を要するであらうとのお言葉、何を意味するのであらう。著者は、「つまりこれは、白村江敗戦から三百年を経て、日本はどの様に『復興』していつたのか、といふことである。」ととらへた。それは、村上天皇の御治世、まさに後世「聖代」を仰がれる「延喜・天暦の治」に当たる。しかし、ここで注意しなければならないことは、この時代、すでに、大化改新の理想とその結実の多くは失はれ、王朝の最後の輝き、残照の時代に入つてゐたことを思ふ。「公」は後退し「私」が前面に現れ、遣唐使も廃絶され、敢為の精神も義侠の心も薄れてしまつてゐた。

 300年といふが、戦後早くも70年。筆者は、この昭和天皇仰せの「三百年」については、単に、物理的時間のスケールとしてではなく、昭和天皇が「日本再建」に込められた意味の重さに視点を置いて承るべきではないかと考へる。昭和天皇の、この仰せからは、真の「日本再建」とは、決して生易しいものではないこと、また、経済・文化、国民生活などの表層的なものにとどまるものでないことを感じる。

昭和天皇の御真意をいかに拝するかは、まことに難しい問題であり、筆者には容易にそれを理解することはできないと思ふ。ただ、昭和天皇の御心を、最も深く理解し体認されれてゐるお方は今上陛下に相違ない。陛下は、昨年8月の「おことば」を次のやうに締めくくられた。

「我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをおはなししました。国民の理解を得られることを、切に願っています。」

 今、われわれには、「日本再建三百年」の壮大なる営みの途上にあるとの認識と自覚が求められてゐるのではないだらうか。この時、陛下は、皇室は、末永く国民と共にあり、その先頭に立つとの思し召しをお示しになつた。そして、これは、昭和天皇の、さらに御歴代の御心と拝してよいと思ふ。さらに、これこそが、わが日本の“Constitution”の根幹であると確信する。昭和天皇の御述懐と今上陛下の「おことば」を重ね合はせ、胸にあふれるものがある。

何よりも、本書の、特色と楽しさは、国史を一本の筋、生命体と見てゐること、歴史を、バラバラにした史実の詮索に終ることなく、命の連続として捉へてゐることである。読者として、ここに新鮮さを感じ、共感をともにするのである。

 

三 輪 尚 信

2016年8月 3日 (水)

建武中興と日本の規準

 今回、日本学協会主催「千早鍛錬会」(819日~21日、吉野・千早)で講話をすることになりました。60分といふ短い時間ですが、後醍醐天皇のご理想・目ざされたもの、そして、それを継承した人々について学び、それを通して、日本国家の特質について考えたいと思つています。

以下は、『日本』(日本学協会刊)8月号に載せた講話の問題意識と概要です。但し、雑誌に載ったものには編集者の手がは入っています。ここにアップしたのは、私のもとの原稿です。ご参考にしていただければ有難く思います。(千早鍛錬会については、「日本学協会」のホームページをご覧ください。)

建武中興と日本の規準

 「中興」か「新政」か

 今回の鍛錬会講話に付けた題は、「建武中興と日本の規準」。「規準」とは、『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「(「規」はコンパス、「準」は水準器)手本となる標準。従うべき規則、基準。」とあり、我々が親しんだものでは、吉田松陰先生の「士規七則」の「規」にあたり、価値を伴ふ強い意味をもつ言葉です。また、講話の主旨を、案内リーフレットに、次のやうに書きました。

 (前略)その時は、「建武中興(建武の新政)」。その主役は、後醍醐天皇。天皇のもとで多くの優れた人々が働きましたが、その代表が楠木正成。 

  天皇が為されようとしたこと、正成たちがお助けしようとしたこと、それは何だったのでしょうか。それを知ることは、日本を知ること。明治維新という誇らしい改革は、天皇の御理想を、深く理解した人々によって成し遂げられました。日本を知る核心の問題なのです。

 

 現在、日本歴史の辞典として最も権威があり、内容においても最大のボリュウムを誇るものは、吉川弘文館の『國史大辭典』です。ここには、「建武新政」の項目はあつても、「建武中興」はなく、むしろ、その用語に対しては、次のやうに否定的に記されてゐます。

  [けんむのしんせい 建武新政](村井章介氏)

 鎌倉幕府が倒された元弘三年(一三三三)五月から約二年間、後醍醐天皇の強力なリーダーシップのもとに展開された復古・改革の政治。従来ひろく行われてきた「建武中興」という呼称は、天皇親政をあるべき政治形態とし、新政を大化改新・明治維新とならぶ日本史上の三大改革のひとつと見る特定の歴史観に立つもので、歴史学の用語としては客観性に欠ける。(下略)

  村井氏からすれば、リーフレットの私の立場は、「特定の歴史観に立つもの」、つまり、「天皇親政をあるべき政治形態」とし、日本政治の「規準」と考へ、「新政を大化改新・明治維新とならぶ日本史上の三大改革の一つと見る」もので、「従来ひろく行われ」てきたが、客観的立場に立つ現代歴史学では無効のものだといふことになります。

端的に言へば、村井氏がいふ「特定の歴史観」とは、いはゆる「皇国史観」、さらに言ふならば、平泉澄博士を代表とする人々の歴史観、といふことになるのでせう。問題は、両者の「歴史観」の根本的な相異、あるひは「歴史学」の在り方についての問題となります。「客観性」とは、学問として歴史学は、「価値」から距離を置くべきだといふ意味ですが、はたしてそれでよいのでせうか。史実の叙述に当つては、正確・公平・公正、まさに客観性が必要であることいふまでもありませんが、明らかになつた史実についての評価は、それとは別に行はれて当然のことです。

 つまり、「中興」といふことは、衰へたものを再び盛んにするといふことですが、そこには、「よきもの」を復活させるとか、あるひは「本来のあるべき姿」に戻すといふ、積極的な価値認識を前提とします。

 建武中興は、後醍醐天皇のお志に始まり、天皇のご指導のもとに行はれた事業ですが、最大の問題は、その後醍醐天皇の抱かれたご理想を、どのやうに理解するかといふことにあります。

 

 後醍醐天皇に対する誤解と非難

 それでは、問題の所在を明らかにするために、まづ、次の一文を検討してみませう。

   正 成 論     塩原

凡そ臣たるの道は二君に仕へず、心を鉄石の如し身を以て国に徇(したが)へ君の危急を救ふにあり。中古我国に楠正成なる者あり。忠且義にして智勇兼備の豪傑なり。後醍醐帝の時に当り高時専­肆(せんし)帝の播遷するや召に応じて興復の事を諾す。こヽに於て正成兵を河内に起し一片の孤城を以て百万の勁敵(けいてき)を斧鉞(ふえつ)の下に誅戮(ちゅうりく)し、百折屈せず千挫撓(たわ)まず奮発竭力(けつりょく)衝撃突戦す。遂に乱定まるに及び又尊氏の叛するに因て不幸にして戦死す。夫れ正成は忠勇整粛抜山倒海の勳を奏し出群抜萃の忠を顕はし王室を輔佐す、実に股肱(ここう)の臣なり。帝之に用ゐるに薄くして却て尊氏等を愛し、遂に乱を醸(かも)すに至る。然るに正成勤王の志を抱き利の為に走らず、害の為に遁れず。膝を汚吏貪士の前に屈せず、義を踏みて死す。嘆くに堪ふべけんや噫(ああ)。(二月十七日)  ―明治十一年―

  古い文章なので、片仮名は平仮名に、若干の句読点とルビを付しました。論旨は明瞭、簡にして要を得た名文です。要するに、楠木正成(以下、楠公)礼讃の優等生的な文章ですが、問題は、「帝之に用ゐるに薄くして却て尊氏等を愛し、遂に乱を醸すに至る」と、ことさら後醍醐天皇を非難する所にあります。

この一文は、『漱石全集』第二十二巻(昭和三十二年四月発行)から採りました。「塩原」の署名があるのは、夏目漱石はこの時、塩原昌之助の養子であつたからで(のち復籍)、当時十一歳、島崎柳塢(りゆうう)が主幹の回覧雑誌に投稿したものだといひます。(全集解説・小宮山豊隆)

 ここで、後醍醐天皇に対する批判は、楠公が天皇の不当なお取り扱ひにもかかはらず、誠忠を尽くした偉大な忠臣であることを強調するための、レトリックとして用ゐられてゐます。それについての論評は後回しにしますが、問題は、この秀才金之助少年がこのやうに歴史を理解し、また、回覧雑誌がこの作文を容易に採用したといふ事実にあります。つまり、これは、当時、楠公礼讃は一般的常識であつたが、同時に後醍醐天皇批判もまた一般的であつたことを示す史料として意味があると考へます。         

では、彼は何を根拠にこのやうに書いたのでせうか。彼は何を読んでこのやうな知識を得たのでせうか。これは推測でしかありませんが、賴山陽の『日本外史』などがそれに当るのではないでせうか。早熟の彼であれば、当時盛んに流布してゐた『外史』を読むことは容易であつたに違ひありません。

 『外史』はいひます。

帝、京師(けいし・京都)を復するを以て、足利の功と為す。闕(けつ・皇居)に帰るの日、首として之を超擢(ちょうてき・他の人をとびこして重く用ゐること)す。是に至つて又四大国(武蔵、遠江、常陸、下総)を管せしむ。尊氏猶欠望(これで満足せず)し、陰(ひそか)に異心(謀反の心)有り。(平泉澄校訂・大日本文庫『日本外史上巻』、以下同じ)

 天皇が、足利を殊の外優遇されたのに比較し、楠公に対するご対応の冷たさを、

 帝寝(ようや)く政に倦(う)み、足利氏の資望(家柄と名声)独(ひとり)盛なり。新田氏之に亜(つ・次)ぐ。正成以下は駆使(ただ使役)に充つるのみ。

と書き、さらに続けて、天皇、三位(さんみ)の局(阿野廉子・あのれんし)を「殊寵あり。内謁(ないえつ)漸く行はる。」とか、「帝は游宴自如、益ゝ珍異を徴す。」などと非難して已まないのです。この金之助少年の作文に論理を提供したものは、このやうな近世の中興論であつたと考へてよいと思ひます。

 漱石先生が、後々、後醍醐天皇・建武中興理解をどのやうに変化させたかについて私は知りません。ここでは、あくまで当時の風潮を知るための、一例証として取り上げたのであつて、文豪に対し失礼があれば赦しを乞はねばなりません。ともあれ、これでは、楠公の真の偉大さ、楠公の心事を表現できたとは到底言へないでせう。

『外史』は、楠公の後醍醐天皇に対する献身については

一兵衛尉を以てして、居然、天下の重き以て自ら任ず。豈に値遇に感激し、身を以て国に許せるに非ずや。

と、陛下から格別のご知遇を得た感激による、その純情に発しそれに徹したのだとし、さらに、「楠氏」の記の最後は、

 蓋し朝廷大に楠氏に任ずる能はずして、楠氏の自ら  任ずる所以は、以て加ふる莫(な)し。(中略)而してその大節は巍然、山河と竝び存し、以て世道人心を万古の下に維持するに足る。之を姦雄迭(たがい)に起り、僅かに数百年に伝ふる者に比すれば、其の得失果して如何ぞや。

と、絶賛の言葉で締め括られれてゐますが、楠公の立場や心事を表現するに、これでは余りにも情緒的に過ぎると言はなければなりません。

また、山陽は、その著『日本政記』においても、中興瓦解の原因は、後醍醐天皇が、京へ還幸され王政復古が成つた後、「今や帝は、纔かに一狂童の高時を斃し、則ち宇内に復た慮るに足る者なし」と油断し、おごり、皇居の造営を急ぎ、寵妃に心奪はれ逸楽にふけり、政務に勤励することなく懈怠されたことにあると非難するのです。このやうな後醍醐天皇批判は、山陽に限ったことではなく、新井白石『読史余論』・熊沢蕃山『集義和書』・三宅観瀾『中興鑑言』などみなさうなのです。はたしてさうであれば、楠木・新田・名和・菊池等の一門一家を挙げて、否、代を重ねての忠義の意味はどうなるのでせうか、大問題となります。どうしてこのやうな後醍醐天皇観が生まれたのでせうか。それについて平泉博士は、

 蓋し彼等の見る所は、一に太平記の記事に拠るものであり、太平記は一面よく事実を伝へて時代の面目をいきいきと描写してゐると同時に、一面には虚妄の説を伝へて後人を誤つてゐるのであり、而して其の虚妄の記事こそ、彼等が中興の政治を評論するに際して、取つて以て基礎とした所である。

と見てをられます。これは、昭和十六年五月発行、鹿子木員信編修『皇国学大綱』に載せられた「建武中興と国史の神髄」と題する論文の一節です。(田中卓氏編『平泉博士史論抄』・以下『史論抄』所収、同書三四〇頁)

 日本国中興

平泉博士には、昭和九年(一九三四)、建武中興六百年祭にあたつて上梓された『建武中興の本義』を始めとして、建武中興に関するご研究は数多くあります。多いといふより、建武中興の「本義」を明らかにすることが、先生のご研究にとつて最も中心的な課題であつたのだと思ひます。先生は、この論文の「序言」で、「国史の中に於いて最も深き意義を有し、其の把握がやがて国史全体の理解を導く」ことになる建武中興を論じ、「国史の神髄をうかゞひ、せめては其の片鱗の輝きをも現さうと希求した」と、この論文執筆の意図を記されました。(『史論抄』三二五頁)

 山陽・白石・蕃山・観瀾等近世の歴史家が、『太平記』の虚妄の説に誤られた理由については、「それらの人々は多く古文書を見る能はずして精査の機を得」なかつた已むを得ぬ事情によるとされてゐます(『史論抄』三五八頁)。先生の史筆は、これらの誤解と非難に対して、確実な史料批判を経た一級の史料を駆使し、まさに客観的で、しかも親切な論証によつて、破邪顕正の論陣を張り真相を明らかにされました。

倒幕なつて親政が復活した建武元年(一三三四)九月、石清水八幡宮への行幸がありました。その時のご願文に、「世は是れ中興を庶幾す」(『史論抄』三四六頁)とあります。結論をいへば、天皇が目指されたことは、日本政治のあるべき姿の回復であり、それをご自身のお言葉で「中興」と表現されてゐるのです。

 先述の『國史大辭典』の村井氏は、「従来ひろく行われてきた『建武中興』」と書きましたが、平泉博士は、これらのご見解を、戦前・戦中に発表されただけではありません。むしろ、内容の豊富な本格的なご著述は、戦後にあるといつて過言ではありません。先生は、昭和三十七年(一九六二)四月七日から、時事通信社の週刊誌『週刊時事』に隔週で史論を連載されました。それらは、順次まとめられて、『父祖の足跡』(昭和三十八年六月)、『続父祖の足跡』(昭和三十九年)、『続々父祖の足跡』(昭和四十年)、『再続父祖の足跡』(昭和四十一年)、『三続父祖の足跡』(昭和四十二年)となりました。

これらは、『父祖の足跡』をいはば総論として、平安時代の中頃から、保元・平治の乱を経て平氏の興亡、鎌倉幕府の成立、北条支配下の幕府の変容といふ、激動の時代を詳細に描き出されたものですが、その最後の『三続父祖の足跡』は、後鳥羽上皇の承久の御企とその悲劇の終幕について一巻を費やされました。

後鳥羽上皇に対する誤解と非難も、後醍醐天皇のそれと同列、厳しいものがありますが、それを丁寧に辨斥し真実を明らかにされ、その末尾の章、「第二十悲劇の終幕」を次のやうに締め括られました。

(前略)戦は激烈であり、処分は苛酷を極め、結局は深刻なる悲劇で終った。待て、終ったと云ふか。果して終ったと云ってよいか。若し此のままにして終るならば、日本はもはや日本では無いであらう。事実は、日本中興の大計画、隠岐と佐渡との悲劇に激発せられて、是より敢為鉄血の熱情を帯び、やがて百年の後に建武中興となり、六百五十年の後に明治維新を誘導して来るのである。

この後も先生の連載は続き、『明治の源流』(昭和四十五年)となりました。その「はしがき」においても、

歴史は、伝承であり、発展である。(中略)斯くの如く伝承を本質とする歴史の典型的なるものは、実に我が国の歴史であり、その最も光彩陸離たるものは、明治維新である。その原動力が遠く五百年を遡って建武の昔に存し、年暦を経る事久しくして却って感激の白熱化した事は、真に偉観と云って良い。

   然るに建武の中興は、更に遡って承久の昔に発源し、承久と建武と明

治と、一連の運動であり、一つの精神、脱然として六七百年を貫いて流れてゐる事は、一層大いなる感激で無ければならぬ。(下略)

建武中興は、建武二年(一三三五)足利高氏反し、翌延元元年(建武三年)高氏は持明院の光明天皇を擁立、「建武式目」を定め武家政権の再興を宣言、後醍醐天皇はひそかに吉野に移られ、それ以後、元中九年(明徳三年・一三九二)の両統合一までの五十七年間、「南北朝時代」と呼ばれる時代が続きました。その間、吉野では、延元四年(一三三九)八月、後醍醐天皇崩御されましたが、その後、後村上・長慶・後亀山、三代の天皇が、艱難辛苦の中、武家政権に対し屈することなく、後醍醐天皇のご精神を永く堅持し続けられました。両統合一にあたつて、「神器」は、吉野の後亀山天皇から「御譲位の儀式」を以て、京都の後小松天皇へお譲りになり、また、果たされはしませんでしたが、幕府と堂々たる約束を取り交されました。

 明治の国家建設は、慶応三年(一八六七)の大政奉還・王政復古、明治二年(一八六九)の版籍奉還、明治四年(一八七一)の廃藩置県によつてその基盤を確立しました。これらの政治過程が、殆ど波瀾なく遂行されたことは奇跡といふべきです。それを実現させた力はどこにあつたのでせうか。それは、当時、衝に当つた人々の間に、日本国のあるべき姿に対する共通の認識が存在してゐたからに外なりません。国家にとつて、制度・経済・文化あるひは人々の生活は当然重要です。しかし、それ以上に重大なものは、国家の精神・理想であり、その伝承・継承によつてこそ、国家の「いのち」の連続が保たれるのです。それが失はれたとき、国土・国民・統治機構が残つたとしても、それは「いのち」を異にする別の国家に過ぎないのです。

2015年3月 2日 (月)

零戦の翼そして雲、どんな色で描かれているのかな?

拜啓 坪井和斗 君

 

和斗君が、昨年(平成26年)、靖國神社遊就館の夏休写生大会に出品した、ちぎり絵の写真と、ちぎり絵に込めた和斗君の思いを、日本学協会の月刊誌『日本』の2月号に、片山利子さんが、「少年の思ひに感動」と題して紹介して下さり、私は、和斗君のメッセージをしっかり受けとめることができたと思います。

 

残念なことに、写真はモノクロで色彩がわかりません。右下の「日の丸」の赤と白地は目に浮かぶようです。零戦は、やっぱり緑色なのでしょうか? 浮かんでいる雲は何色なのだろう……と想像しながら、片山さんと同じように私も感動を味わっています。

 

片山さんは、「零戦は、おそらく散華(さんげ)された英霊の象徴であらう。」と書かれていますが、この零戦は大きな空に浮かび、私の方に向かって、今にも、何かを語ろうとしているように感じます。

 

零戦の背後には、「日本を守ってくれて、ありがとうございます。」と書かれています。

和斗君は、のちに、遊就館に宛てた、「戦友さんと遊就館のみなさんへ」という手紙で、その気持ちを、「ぼくは、あの絵に、命がけで日本を守ってくれてありがとうございますと言う気持ちで、一言書きました」と記し、またお母さんの手紙には、「『ありがとうございます』を『ありがとうございました』としなかったのも、感謝の気持ちがそれきりではなく、ずっと続いています。の意味が込められています。」と説明されていたとのことです。

 

これを読んだとき、すぐに、皇后陛下の御歌(みうた)が頭に浮かびました。

 

平成八年 終戦記念日に

   海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なきあまたのみ霊(たま)国護るらむ

 

私は、和斗君の零戦が「何かを語りかけようとしているように」感じると書きましたが、それは、靖國神社の英霊は、皇后陛下がお感じになっているように、和斗君の真心に対し、またこの絵に感動する人々に対して、「身体は亡(なく)なっても、魂は生き続け、今でも、命がけでこの国とこの国の人々を守っているよ!」と語りかけているように感じたのです。

 

きっと英霊は、和斗君のような、まっすぐな心、真心からの感謝に対して、この気持ちを伝えたい、そして、日本人の多くがこの心を理解できるようになってほしいと願っておられるのでしょう。

 

海軍の特攻兵器、人間魚雷「回天」を創案し、その採用を海軍当局に強く求め、自らその作戦に従事したのは、20代前半の青年士官たちでした。その中心が、黒木博司・仁科関夫両少佐でした。

黒木少佐は、昭和19年9月7日「回天」一号艇の訓練中に殉職(享年24歳)、仁科少佐は、昭和191120日最初の回天作戦で、ウルシー島北部の米海軍泊地を攻撃し戦死(享年23歳)されました。 

その黒木少佐が、同志・戦友に贈られた歌に、

 

  国を思ひ死ぬに死なれぬ益良夫(ますらお)が魂とゝめ(留)て護らんとそ思ふ

 

と、国の将来を思うと死んでも死にきれない、死してもなお魂を留めてこの国を護るのだとの切実な思いを詠まれたものがあります。

 

 黒木少佐が、尊敬し魂の師とされたのが平泉澄博士(当時・東京帝国大学教授)でした。平泉博士は、昭和36年、「回天」の基地であった大津島に、「回天碑」が建てられたときに、

 

  その姿目にこそ見えね ま(真)心は とはに(永遠)に守らん父母の国

 

の歌を英魂に捧げられました。

 

また、仁科少佐のお母さん仁科初枝さんが、昭和25年6月15日に、黒木少佐のお母さん黒木わきさんに贈られた葉書には、

 

   博司様御地下に、日本の再建の案を題をつかねて、関夫と相談して居られるのでせうね。

 

とあります。

最愛の令息を国に捧げられた初枝さんには、関夫さんたちの魂は今も生き続けていて、あの日、倉橋島の呉海軍工廠魚雷実験部(P基地)で、黒木少佐と、力を合わせ日夜兵器改良に苦心惨憺していた時と同じように、今もきっと二人は、「日本の再建」という新しい難題に真正面から取組み、あの時と同じように、解決の策を求めて懸命に語り合っているのだろうと感じ、その姿を目に浮かべられたのでしょう。

 

 ここには、身は朽(く)ちても魂は永遠にこの国に留って、なお護国の任を担うのだという悲願、そして、英魂は今もこの国と私たちを守って下さっているのだと感得する日本人の魂に対する確信があります。

 

 黒木少佐には、「鉄石の心」と名付けられた血書の日記があります。その中に「正学留魂」の文字を記されたことがありました。正しい学問によって精神を鍛え、その魂を永遠に留めるのだとの決意と願いを込めた言葉でしょう。この「留魂(りゅうこん)」は、幕末、明治維新実現のために身を捧げられた志士・先覚者に共通の思いでした。

 

安政の大獄に連座した吉田松陰は、処刑の前日遺書を認めました。松陰はその遺書を『留魂録』と題しました。『留魂録』の冒頭には次の歌があります、

 

  身はたとひ武蔵の野辺にくちぬとも留めおかまし大和魂

 

また、維新の最も重要な指導者の一人であった真木和泉守保臣(まきいずみのかみ・やすおみ)は、禁門の変敗れて天王山で、16名の同志と自刃しました。その辞世は、

 

  大山の峰のいはね(岩根)に埋めにけりわが年月の大和魂

 

でした。

 

 靖國神社の祭祀は、このような志士の精神を受け継ぎ、その尊い御魂をお迎えしお祭りする「招魂社」として創建されたことに始まります。

片山さんの紹介から、和斗君の英霊への素直な心持に触れることができ、こんなことを思い起こしたのです。

 

間もなく、九段は桜花爛漫(おうからんまん)の時を迎えます。そのころ、和斗君は4年生になるのでしょう。学校の勉強や色々な活動にますます忙しくなるのでしょうね。

わたしたちは、自分自身の力をつけ、さらにそれを高めるための勉強をしなければなりませんが、それと同時に、「私」のことばかりでなく、お国のこと、「」のことについてもできるだけ心を配ることが大切だと思います。このことも、和斗君のメッセージから改めて感じたことです。

 

天皇陛下は、昨年のご誕生日に際しての記者との御会見(平成261219日)で、

 

日本が世界の中で安定した平和で健全な国として、近隣諸国はもとより、できるだけ多くの世界の国々と共に支え合って歩んでいけるよう、切に願っています。

 

とのお考えをお示しになりました。まさに、このことこそ、英霊が真に望まれていることだと思います。

 

和斗君は、きっと大きな力に守り導かれて、これからも豊かで大きな心を育てていくことでしょう。私も、新学年、新しい学生のみなさんと出会い、新年度の活動を始めます。天皇陛下、そして英霊の御心を忘れず、自分の役割を果たしていきたいと思っています。和斗君に負けないように……。そして、できるだけ多く、靖国神社へもお参りしたいと思います。

九段の坂を登っていくと、感謝のお参りをし、遊就館で勉強している和斗君にきっと会えるような気がしています。

 

片山さんの紹介を読みながら、私はこんなことを考えました。和斗君御元気で。

                                  敬具

 

三輪尚信

 

 

 

 

 
 

月刊誌 『 日本 』

 

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2014年8月 6日 (水)

下呂 楠公回天祭 について

下呂 楠公回天祭 について

 

岐阜県下呂市信貴山(しんぎさん)山王坊境内に、「回天楠公社」というお社があります。御祭神は、大楠公・楠木正成公を主神に、黒木博司少佐をはじめとする回天殉国勇士の神霊が併祭されています。

御創建は、昭和39年9月27日。平泉澄博士の勧請によります。下呂は、黒木少佐の故郷であり、この清らかな場所が選ばれました。

黒木少佐の殉職は、昭和19年9月7日早暁。毎年この日に近い日曜日に、としごとの祭りが斎行され、今年は9月7日(日)に51の「楠公回天祭」を迎えます。

 

今年は、昭和19年から数えて70に当たります。黒木少佐・樋口孝大尉の殉職の悲劇を乗り越え、最初の回天特別攻撃隊「菊水隊」が大津島を出撃したのが11月8日、目的地に至り、1120日それぞれの潜水艦から発進、ウルシー泊地及びコッソル水道を攻撃、これより回天作戦が始まりました。

また、この年、「回天」に先立ち、10月には、「神風(しんぷう)特別攻撃隊」が編成され出撃、これ以後終戦に至るまで、尋常ではない、陸・海・空にいくつもの特別攻撃が敢行されました。

今年は、特攻が始まった昭和19年からたまたま70年に当たるのですが、改めて、特攻勇士の英魂を仰ぎ、今を生きる日本人として、自己の在り方を深く考え直す機会にしたいと厳しく受けとめています。

 

現在、神社の維持や例祭は「回天楠公社奉賛会」によって行われていますが、同会では、今回『楠公回天祭五十年誌』を編集、回天祭当日刊行されます。これにより、平泉澄博士の「回天楠公社」に対するお考え、さらに、それを承けて50年間、真摯な御奉仕をされてきた先人のお姿が明らかになるに違いなく、深く学ぶことができると心待ちにしています。

 

祭典の後、『五十年誌』編集の主務を努めた橋本秀雄氏の「五十年誌刊行に思う」と題した講話があり、上記のことがわかりやすく説明されるものと期待しています。

その後、簡単な直会と懇談があります。

 

詳細は、「楠公回天祭」のホームページ、「お知らせ」をご覧下さい。

                三輪 尚信

2014年7月10日 (木)

『平泉澄博士神道論抄』研究ノート (その1)

平泉澄博士神道論抄』が上梓されました(524日・錦正社刊)。

 

平泉隆房氏の「序」によれば、「本書は、祖父平泉澄(以下、著者)の著述の中より、主として著者の神道論を理解するのに適当と思はれる論文・講演類を一冊に集録したもの」と説明されています。

 

平泉澄博士の「論集」としては、以前に、田中卓氏の責任編集で、「平泉澄博士の厖大な著述の中より、主として著者の〝歴史家としての史観〟を理解するのに適当と思はれる論文・講演記録等を編者の私見によつて一冊に収録」した『平泉博士史論抄』(平成122月・青々企画刊)が刊行されており、これで、平泉博士の「歴史観」を理解するための『史論抄』と、その「歴史観」の背後・根底にある「神道観」を理解する手がかりとなる『神道論抄』が並んで揃ったことになります。

 

まさに厖大な著述の中から、それを貫いている、「歴史観」や「神道観」を主題とし、それを裏付けるべき適切な作品を選んで編集することは、至難のこと。編者は、その全業績に通暁するのみならず、著者その人の、学問・志操についての深い理解を必須とするこというまでもありません。

 

平泉隆房氏は、本書に、「神職としての祖父平泉澄」と題する新しい論考を寄せていますが、平泉寺白山神社の宮司職は、今、父の代を経てこの人にあり、また、平泉博士と同じ日本中世史を専攻する学究(金沢工業大学教授)、特に、『中世伊勢神宮史の研究』(吉川弘文館刊)の著書を持つ、平泉博士の『神道論抄』編者たるに最もふさわしい人でしょう。

 

また、田中卓氏は、東京帝大・国史学科における、平泉博士最後の直弟子であり、その60数年にわたる壮絶な学究生活の業績は、『田中卓著作集』(全12卷)・『続・田中卓著作集』(全6巻)(ともに国書刊行会刊)にまとめあげられ、独創的で壮大な「田中卓古代・上代史学」は、国史学の金字塔として、戦後国史学界に特立し、聳え立つ存在であり、その渾身の献身によって編集・刊行された『史論抄』は、平泉博士とその史学研究の進展に大きな貢献をしてきました。

 

今、こうして、「史観」・「神道観」の両面から、平泉博士の学問・思想を理解するに便なる二つの『論抄』を得たことの意義は実に大きく、さらに今後、平泉博士とその学問・思想に対する研究・理解が進む大きな契機になるに相違なく、その刊行を心から喜び歓迎し、田中卓・平泉隆房両氏の壮挙に心からの敬意を捧げたいと思います。

 

その目次は次の通りです。(  )内に、初出の「年・月」を追記しました。

 

   口 絵(19葉)

   序   平泉隆房

 

     Ⅰ 神道総論

   1 神道の本質     (昭和51年7月講義)

   2 神道の眼目     (昭和339月)

   3 神 徳       (昭和3711月)

   4 神道の自主性    (昭和28年1月)

   5 受難の神道     (昭和311月)

   6 皇学指要      (昭和4410月)

 

     Ⅱ 神社の歴史

   7 神仏関係の逆転   (昭和2年7月)

   8 伊勢神宮の信仰   (昭和31年1月)

   9 雲に入る千木    (昭和29年5月)
    
 10 三輪山       (昭和38年2月)

  11 外交の祖神     (昭和474月)

 12 東照宮の造替に就いて(大正103月)

 13 靖國神社総説    (昭和4211月)

 

     Ⅲ 歴代の御聖徳

 14 天智天皇の聖徳   (昭和3511月)

 15 後鳥羽天皇を偲び奉る(昭和14年3月)

 16 順徳天皇を仰ぎ奉る (昭和17年9月)

 17 後醍醐天皇の聖徳を仰ぎ奉る(昭和15年3月)

 18 孝明天皇の聖徳   (昭和4111月)

 19 明治の大御代    (昭和4011月)  

 

 ここには、19篇の論考・講演録が収められていますが、特に注目され衝撃的であったのは、そのうち15篇が、戦後のもの、特に、「Ⅰ 神道総論」に集められたすべてが戦後の作品であることです。

 

従来、平泉博士を論ずる人々の中心的な関心は、戦前・戦中の博士にあり、戦後の学問業績や社会的な活動について検討されることは極めて稀でした。

 

 しかし、平泉博士、終戦の昭和20年(1945)は51歳、その89歳の帰幽は昭和59年(1984)。大正7年(1918)の大学卒業から昭和20年までは27年間、昭和20年から帰幽までは39年間です。その活動の時間は、戦後が、戦前・戦中よりも長く、また、その間の著述も20篇を超えています。

 

しかも、日本が、敗戦・占領という未曾有の困難に際会したこの時期、平泉博士が、その時代をどのように見、何を思索し、どう判断し、何を為したのかを理解することは、平泉博士を研究し論じようとする人にとって重い課題であり、また、昭和の精神史解明のためにも避けて通ることはできません。

 

それでは、なぜ戦後に「神道」を真正面から主題に据えた論考が多く書かれたのでしょうか。

 

それは、戦後という時代の要請であったに違いありません。この時期、「神道」あるいは「国民精神」は、大きな苦難に遭遇し、深刻な危機に直面しました。このような中で、平泉博士は、激しく自らの信仰を告白し、人々にも、「預言者」のごとく、苦難や試練に耐え、精神の回復・独立を強く訴えたのでした。

 

私には、あの時の日本が遭遇・直面した国民精神の危機は、今なお克服されておらす、さらに増幅され、より厳しい試練に直面しているように感じられます。

 

もしそうであるとすれば、本書に満ちあふれる、博士の、戦後日本と日本人に対する、厳しき警告と温かき激励は、決して過去のこと他人事ではなく、まさに今を生きる日本人こそが真剣に受け止めるべき教訓だと思われます。

 

Ⅱ 神社の歴史」「Ⅲ 歴代の聖徳」の諸論は、単なる観念的・思弁的な神道論ではなく、歴史の事実の中に現れた、日本人の高貴な信仰、祈り、道義心が博士一流の美しく温かな筆致で描かれ、現代の日本国と日本人が回復すべき目標が自ずと明らかになるような感がします。

 

このような精神の伝統を受け継ぎ、直面する困難に対し、表層の糊塗で誤魔化すのではなく、清純で強靱な精神を回復し、根元的な解決をと訴える本書が、今、刊行されたことの意味は絶大、深く学びたいと思います。   

 

 

             三輪 尚信 

 

『平泉澄博士神道論抄』

発行所・錦正社

定価:本体3,500円(税別)

A5判・上製・カバー装・342